田中阿季羅が白金堂にまつわる様々な話をお届けします。

2012年6月アーカイブ

自然の営み

 最近、異常気象や大きな災害が起きたと大騒ぎするが、自然の営みはここ一億年くらいはそんなに変わっていないはず。人間が自分勝手な物差しを作って、その物差しで自然を測ろうとするから大変だ、と大騒ぎしなくてはならなくなる。

 

「自然に逆らいすぎている人間の身勝手」

 人間は自然に逆らいすぎている。他の生き物は逆らうことなく、自然に合わせて生きている。私の仕事も、自然に合わせてやらないと仕事にならない。木をひとつ動かすにも時期がある。自然の営みを無視してはできなない。

 以前、宇宙に円山公園の桜のタネを持っていく話があった。私はタネは下へ落ちたがるものだ、ばかなことをするなと反対した。結局、100粒持っていったが、ほとんどが発芽しなかった。そういう発想をすること自体が人間の身勝手だ。

 日本人についていえば、日本の自然、気候風土の中での立ち位置を忘れてしまっている。現代はもろもろの機械の力を借りて生活するようになった。詰まるところが原発で、手に負えなくなったら大騒ぎだ。昔のように水力で発電していたころは、電気はどうしてできるのか私たちは分かっていた。けれども今、原子力による発電の仕組みは専門家しか分からない。しかも専門家はそれだけしか分からないから始末が悪い。全体を総合的に見通せない。基本的に自然の仕組み、営みが分かっていない。

 個々のことをみてもそのことはいえる。自分のことだけを考えている。自分の存在感だけは分かっていて、回りのことは何もかも忘れてしまっている。

 

「米の文化」 を忘れ 「麦の文化」 を安易に受け入れた

 なぜこうなってしまったのか。思うに日本は 「米の文化」 なのに、それを忘れて西洋の 「麦の文化」 を安易に受け入れてしまったからだろう。稲の刈り取りが終わって麦をまく。麦が終わって苗を植える。始まりが逆だから発想も逆なのが当たり前なのに、麦に合わせた発想をするようになってしまった。

 家を見ても高層マンションがもてはやされ、上へ住むのがいいように言い立てる。町中の川も両岸をコンクリートで固めて雨どいのように水を流す。これは米の文化ではない。地面 (平地) と水回りを重視し、これらをうまい具合に加減しながら使うのが米の文化だ。特に水の使い回しは昔から第一級。なのに現代人はその価値観を忘れてしまっている。

 

しゃくし定規で、本来あるべき 「遊びの間」 もない

 だから、日本の社会に本来あるべき 「遊びの間」 もなくなってきている。しゃくし定規に物事を考え、わずかでも自分の物差しに合わないと間違いだという。 「1+1=2」 というのは固定的な考えだ。 2は0.5を四つ足してもいい。2に導く答えはいくつでもあるのに自分で考えて答えをだそうとしない。私たち職人はあほなことをいいながら、間をもって弟子に考えさせて仕事への心構えや技を伝えてきた。

 今すぐ昔に戻れというのではない。大事なのは、 相手(自然) の物差し (営み) を知り、それが人間の物差しと合わなかったら、人間の物差しを作り直す謙虚さだ。

 

京都新聞 「日本人の忘れもの 京都、こころ ここに」 

「植木屋」 16代目 佐野 藤右衛門さん の言葉

 

 

00007670.jpg『色絵紫陽花図透彫反鉢』 

 

芹沢銈介展

 昨日、4月より気になっておりました 『芹沢銈介展』 を京都文化博物館まで観に行ってまいりました。展示最終日で、日曜日ということもあり大勢の方が来館されていました。

芹沢銈介(1895-1984)氏は、日本の伝統的な型染を基に芸術性の高い染色を創始された作家で、1956(昭和31)年に 「型絵染」 で重要無形文化財保持者(人間国宝) に認定をされておられます。

 芹沢氏のデザインを代表する 「文字の模様化」 は、その美しさと意匠のバリエーションの多さに驚嘆するものばかりでした。また、偉い方なのに、親しみやすいそのデザインは、帯地・屏風・のれんなどに表現されているところから見てとれます。本物を目の当たりにし貴重な時間を過ごすことができました。

 

2012.6.3   京都文化博物館   芹沢銈介展.jpg 

 

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